ある日、ザファド1)――マティアス・クロイゼルン2)は、かつて失った己の力の一部が戻りつつあることに気付いた。
先ず《彼》が何者かについて少し説明が必要だ。
かつて彼は普通の真面目な魔術師として地味で堅実な研究と実践をしていたが、紆余曲折の末に師と仰いだ者との別離を経て(このあたりはあまり語りたがらない)、永遠の生命と真理の追求に没頭した結果《魔人》と化した。膨大な魔力と永遠の生命と引き換えに、人間であることを捨てた。その為、少なくとも人ならざる者に脅かされていた境遇の人々には疎まれ畏れられる存在ではあったが、但し本質的には善良であった。
マティアス、いや紛らわしいので魔人のマティアスの事は《ザファド(闇の棺と拳)》3)と呼んでおこう――は物理的な人間の理はとうに捨て去ったが、一個人としての矜持と善性を捨て切れていなかった。彼と同じ名を持つ非道にも程がある魔術師に翻弄され人生を壊されたひとりの女性(とその息子)に彼なりの慈悲と助力を与えたのもその辺りに引き摺られているのだろう。ただ彼は少しばかり不器用だ。或いはその当時、彼はその魔力の大半と《名前》を奪われていた為どう見ても子供の姿をしていたから、やることがささやかな親切に留まった訳だが。
魔人でありながら何処か精神的な人らしさというのを捨て切れなかったが故に、敵対する者にもそこに関わる者にも、彼は非情に徹した対応が出来なかった。例えばかつて彼がマティアス・クロンダイク4)に巧妙に罠を張られその力と名前をごっそり奪われた5)際も、その底意地の悪い闇に直前まで気付けなかったのだ。だからその後長らくは幼く非力な(とはいえ人間の域は凌駕した何かだったが)存在として停滞していた。少なくともあらゆる施策を巡らせて失ったものを奪い返そうという気は無かった――マティアスと同じ土俵に立つ気が無かった。幸い彼には時間が幾らでもあった。つまり魔人ザファドはマティアスが自然死か討伐されるのをじっくり待つことにした。
……別に自身の非力さを再認識したくなかったからではない。断じてない(ザファド曰く)。
とはいえ、さしものザファドもその《討伐》がマティアスの子――かつてザファド自身が救った長子のイライジャ6)によって直接為されることは想定していなかった。つまりはそこまで強い怨恨をあらゆる周囲からマティアスは買っていた訳だが(まあその詳細はイライジャに関する話の方に委ねるべきだろう)……。
兎に角、その日ザファドは、かつて己の力を奪ったマティアス・クロンダイクが実子のイライジャに討たれたことを知った。
……それを知ってどうするのだろう。
以前失ったものがただ戻って来……いや、完全には戻っていないようだが、それだけだ。これ以上彼らに関わる意味が、理由が無い。
無い、筈なのだが。しかしそうして一切を無視しようとする考えに、好奇心と義務感が勝った。彼が今どうしているか、どのように成長して、何をして、何が出来て――そういうことが、ふと気になったのだ。
ふと、由縁のあった魔術師のことが脳裡を過る。ザファドの師であり想い人であった魔女のことが。
ザファドの「人らしさ」を現世に繋ぎ留めていたのは他ならぬ彼女の存在、彼女の記憶。それはもう数百年前の話で、随分前から風化し始めている。完全に忘れ去った訳では無いが、その役割を終えようとしている。或いは、ザファドの人らしさを留める役割は既にイライジャに託されているのだろう。
……そんなことを朧に考えながら、ザファドは極々僅かな手荷物を纏める。
魔人ザファドは、精神的な人らしさを未だに捨てられていなかった。それは彼の弱点であるとともに美徳だった。
少なくとも人間に関わって生きて行く限りは。
脚注
1) 名前が同じというだけでイライジャの父に能力を奪われた不運な魔人。長い時を生きるが魔人としては然程強くはない。
2) ちなみにKläuselungというのは漣の意だが本人は半ば忘れている。
3) 行使できる魔力の大半を失った為、半ば死んでいる+拳で戦うしかない、という意味の自嘲。
4) ありとあらゆる手段を駆使してその力を高めようとした史上最凶と目される闇魔術師。
5) 「闇に魂を染めた魔術師は同じ名を持つ闇に生きる魔人から魔力と名前を奪える」という伝説を現実のものにしてしまったというトンデモ。
6) マティアスとミディムの子、次元の放浪者、【九賢】の【探索者/藍風】。本編における準主人公にして生徒たちを見守る指導者。